コミュニティ「HSC親子の安心基地」では、「HSC子育てラボ」主催のオンライン勉強会を開いています。
7月24日に行われた勉強会は、HSPである斎藤 裕医師(「HSCを守りたい」の「1章・2章・6章」原案執筆)を講師に迎え、精神科医の近藤章久先生(故)の著書『その道は開けていた』より抜粋した問答を題材に、「疑問を持つこと」や「愛着」について学びました。
題材になった問答はこちらをご覧ください。
この記事では、議事録としてまとめたものを公開したいと思います。
※この議事録は、本来「HSC親子の安心基地」で共有されるものに少し手を加えたものです。
今回のテーマ(資料)が選ばれたきっかけ
裕Dr:女子W杯でアメリカが優勝したが、賞金は男子の9分の1程度だった。
女子サッカーの人気は急速に拡大している一方で選手たち本人はというと、男子選手よりも所得や賞金が低いことに異議を唱える声が高まっている。
2015年W杯で優勝したアメリカのゴールキーパー、ホープ・ソロ選手は、男子と女子の賞金格差は、国際サッカー連盟(FIFA)の中で「男尊女卑主義が染み付いている」ことを表していると主張。
このような報道を見ていて、その理不尽さ、悔しさについて訴えられようとしていることが自分のことのように染み入ってきた。
多数派の中に存在するHSC/HSPと構図は変わらないように思う。
(例)世の中の多数派は、
・外向性・社交性に基準を置く
・幅広く交友関係をつくることに価値を置く
・人の前で発表するなどして多くの人から評価されること・認められることに価値を置く
など、「価値・基準」が「理不尽」や「不利」を生み出している。
一方、少数派であるHSC/HSP(HSSについては触れない)は、
・刺激の強すぎない環境を好む性質であり、内面の世界に意識が向いていて、自分の感じ方を大切にする
・自分が交流を深めたい相手を選び、かつその相手と深いところでつながって喜びを感じられるようなコミュニケーションに価値を置く
前者である多数派の基準・価値が“普通”で“当たり前”となっている世界の中で、HSC/HSPは、生まれた時から自分の気質について知ることも気づくこともなく、生きづらさを抱えながら生きてきた。
しかし子ども時代HSCで、現在HSPである人々の多くが、HSC/HSP概念を知った今も、気持ちが伝わらない理不尽さ、大きな壁を感じている。
今回の題材となっている資料(こちら)の文脈には、
「女性は、男性優位の社会の中で、どこかもどかしさ、悔しさ、あきらめざるを得ない気持ちを抱えている。そのような気持ちや感情に光を当てないといけないのでは?」という問いが含まれている。
そこで、価値・基準に差異があり、いずれかが無意識に低く扱われるがちな「性別」「気質・特性」の違いを並べて考察する。
疑問を持つことの大事さについて
子ども時代、家庭や学校では疑問を持つことは歓迎されなかった。
違和感や疑問を持っても伝わらない…わかってもらえない…
大人の言うことやルールに従う良い子でなければ認められない…
そうして疑問を持つことから離れてきたが、果たしてそのままでいいのか問われている。
なぜ学校が必要なのか?
5教科中心の教育をすべての子どもに与えることが良しとされるのか?
なぜ家で学ぶことが選択肢のひとつとされていないのか?
託児機能としての学校利用が優先されていないか?
なぜ女性は結婚したら姓を変えないといけないのか?
女性のみが結婚したら生まれた家を離れ、嫁いでいかなければならないのはなぜか?
嫁ぎ先での嫁の役目の存在、例えば、数々の行事、嫁ぎ先の家族の生活の世話を負わされることに疑問は?
そこに対等性・平等性がないのが“当たり前”になっていないか?
ひとつひとつ疑問を持つこと。
「愛着」を分断する「社会的責任」について
「疑問を持つこと」のディスカッションから、
「伝わらない」「わかってもらえない」と子どもが感じる時、心の交流(愛着)が分断されている、という話へ。
「愛着」が安定している関係とは…親と子どもとの間に絶えず情緒的に心の交流が行われている状態。
それが分断されるのが、「社会的責任」を優先される時。
「社会的責任」=(例)仕事、嫁という立場、PTAなど
これら社会的責任は、「愛着不安」によって何よりも優先されるため、子どもや伴侶との心の交流が分断される。
※「愛着不安=幼少期に体験した見捨てられ不安」を引きずっている人は、人から認められたいという欲求が非常に高まっている。
「愛着不安」により、承認欲求(褒められると嬉しい・気持ちいい)が高まり、上昇志向(人よりも優位に立っておきたい・勝っておきたい願望)への依存が強まる傾向。
→劣等感・自己否定感を払拭するために、「自分は優れている」「自分は人とは違う」「自分にはできないものはない」といった万能感を無意識のうちに防衛として身につけていることも。
見捨てられ不安(恐怖・罪悪感)も。
→背くと嫌われる、見捨てられる。期待に応えられないと罪悪感。
承認欲求の高まりや、上昇志向(人よりも優位に立っておきたい・勝っておきたい願望)への依存には、人から褒められること・人よりも優位に立てていることへの心地良さが存在するため、子どもや伴侶との心の交流の時間より、そちらが勝ってしまう。
その心地良さに依存してきたため、そこから離れると→禁断症状(例:不安・空虚感・寂しさ)が出現→他の嗜癖・依存症(スマホ・買い物・過食・リーダー的orカリスマ的存在への依存など)に移行することも…
このことを十分に理解した上で、
自分がつくった家族(伴侶・子ども)との間で心の交流を高めることの大切さを優先していく。
安心感と信頼感を備えた『安心の基地』をつくることで、それ(不安・空虚感・寂しさ)に耐えるだけの力ができていく。
家族で『安心の基地』の内容・目的を共有する。
例えば、社会道徳や社会通念としての価値観に縛られた人による口出し「こうするべき」「こうしたほうが良い」など、それを乱す存在があれば、それに気づいていくことが必要。
愛着の問題の影響について
「親になったら親の気持ちや大変さがわかるよ」という言葉をよく耳にするが・・・
幼少期からの、親の都合や価値観に合わせなければ親は喜ばない、不機嫌になる、無言になる、口数が減る、表情が曇る、悲しそうな顔をするなど、見捨てられ不安や恐怖を喚起させるようなコントロールをされてきたら・・・
そのために「親の立場で考える・親と考えを一緒にする(同一化)」することで、見捨てられる恐怖から自分を守ろうとする防衛が無意識のうちに今も働いていて、心の中に親が棲みついたような状態にあるということ。
親御さんが幼少期の愛着が不十分であったことや愛着の傷、我慢を強いられてきたツケなどが、年齢を取るとともに心の空虚や孤独感となって襲ってきている。その寂しさを紛らわすための人への干渉や侵入となっている。それが子ども夫婦の間を引き裂くことも。本来、親の人生、親自身で責任を取らなければならないのに。
だから愛着を学んでもらいたいというのが祈りのようなもの。
子どもさんに愛着の傷があれば早いうちに回復させたほうがいい。
【回復の3つのポイント】
・安心の基地を構築すること
・子どもが溜めてきたものを吐き出そうとする時、受け止めて心の痛みに寄り添う
・満たされていない心の飢えを満たす
安心の基地を構築することで感情の解放が起こる。
親が洞察まで至った時、「赤ちゃん返り」「汚い言葉」「命令」など
その回復の期間、例えば、1~2年間は子どもが主役。
〈資料共有〉〖子どもの、閉じ込められていた「感情や本当の人格」を光にさらしていくことの重要性〗について
親が、子どもの気持ちを受け止めることの大切さに気づき、聞く耳を持とうとすると、子どもの中で、ずっと出せずに溜っていた怒りや不満を親に向かって出し始める時が訪れます。
そのとき親は、自分の意見や考えを返したり、親として理論で諭そうとすることを手放し、子どもから溢れてくる言葉や感情をそのままに、ただただ浴びる、受け止めることが大切です。
それはまるで、天から降り注ぐ雨のようなもので、雨を受けることしかできないように、そこに降り注ぐ雨(怒り)に、うたれるようなもの。
目の前で暴言を吐いたり、睨みつけたり、暴れたりしている子どもに対して、親としてのプライドや親としてのあり方へのこだわりなどから湧き起こる自分の「我」を殺して相対するということです。
つまり、「Let it be done」(なされるがままにあれ)ということ。
そうしているうちに、不思議と、お互いに何かが変わってくることが感じられます。
(斎藤 裕)
〈資料共有〉【わが子の心の痛みと向き合う】について
子どもが反抗的になり、親を責めるようなことを言い出したときは、これまでの歪みを正し、関係を修復しようとしているのだ。
それは、親とのかかわりに区切りをつけて、自立へ向かおうとしているということだ。
その言葉に耳を傾け、子どもがどこで傷つき、何に矛盾や痛みを感じてきたかを、心から受け止めるだけでいいのだ。
その思いに、真っすぐな気持ちで向き合うことだ。自分を弁護せず、その苦しみを共有し、いっしょに泣くことだ。
本当にその子の痛みを感じるならば、いっしょに泣くだろう。
その場で泣かずとも、その心を思って、陰で泣くだろう。
そうして受け止めるしかないのだ。
傷を癒すには、怒りや苦しみを吐き出し、涙で傷口を洗うしかない。それが一番の近道だ。
(『母という病』岡田尊司/著 ポプラ新書 p247~248より抜粋)
対人関係の基礎=親子の安定した愛着
親は自分のことをわかってくれる、必要な時に求めに応じてくれる、守ってくれるという安心感・信頼感の内在化と、その積み重ねによって、安定した愛着が形成され、その安定した愛着を土台として、子どもは好奇心に導かれ、外の世界に安心して向かっていける。
そして子どもが、幼い頃に親との愛着が安定したものとしてしっかりと結ばれるとともに、オキシトシンの分泌や、脳の中のオキシトシン受容体の数が増え、その結果、不安やストレスを感じにくい体質となり得る。
対人関係の基礎=親子の安定した愛着であり、それはつまり、親子の信頼関係の構築でもある。
~ディスカッション~
“普通”で“当たり前”となっている関係~見ないように感じないようにしてきた思いや、理不尽さに気づていく中で、親子関係が話題の中心に。
責任の所在を客観的に認識する
裕Dr:生活力がなく、権力・知力・言語力・腕力とも親や大人にかなわない関係の中で、閉じ込めてきた気持ち、無力だった子ども時代に負わされてきた役割・義務・心の傷
自分の責任の範囲をはっきりさせるために、
「無力で自分を守る術を持ち得なかった子ども時代に親や大人との関係によってもたらされることとなった責任(役割・義務・心の傷など)」
と、
「自分を守ることができる年齢になって持つ必要があったとされる責任」
を分けながら、その『責任の所在』を客観的に認識していくということ。
そして、
子どもの自分が負う必要は無かったという事実を認めて、もう誰との間でも同じパターンは引き受けないと決めるということ。
そして「あの時感じていたことは間違っていなかったんだ」と振り返りながら心を癒していくことは尊いこと。
これからの人生、自分の気質を知った上で選択していくことが大事 ⇔ 選択することすら許されない時代だった。
〈資料共有〉【ポジティブなイマジネーションの上塗り】について
もう一つ大きな壁が、親からの心理的自立を阻みます。それは今まで育ててくれた親への「感謝しなければならない」、あるいは恩に免じて「許すべきだ」という「義務感」と「罪悪感」です。
常識的には、親への「感謝」や「許し」は子どもの義務になっています。
「トラウマセラピー」の基本は、症状の原因となっているネガティブなイメージや感情 を取り除くことです。
ネガティブなものが潜在意識に抑圧されている状態で、いくらポジティブなイマジネーションを上塗りしても、いずれはげ落ちて再発してしまうからです。
親への愛着という執着、常識的な親への「感謝」と「許し」の感覚があると、どうしてもネガティブなものはその下に抑え込まれてしまって、解放されにくい状態を作り出してしまいます。今までの臨床体験は、このことを雄弁に語っています。
決して私は、「親を許すべきでない!」と言っているのではありません。
症状の原因となっている潜在意識に抑圧されたネガティブなものを手放すために、親への「感謝」や「許し」は邪魔をするという事実を言っているだけです。
この見解には価値観は一切含まれません。
ネガティブなイメージや感情を手放して、自立の方向に歩み出した人が、親御さんとの関係をどのように築いていくかは、その人が過去に縛られない自由な思考で判断すればよいことです。
親子関係をどうすべきかは、セラピストが立ち入るべき問題ではありません。
もしセラピストがそれを行ったとすればコントロールになってしまうからです。
(『隠された児童虐待』鈴木健治/著 文芸社 p281~282より抜粋)
〈資料共有〉【「怒り」の行方】について
人間の感情、特に「怒り」のようなネガティブな感情が、どのようにして連鎖的に伝播していくかを単純化して描いてみよう。
ある男が職場で上司からどなられる。身の安全のためには当然どなり返すことはできない。
彼は持っていき場のない腹立たしさを抱えたまま帰宅し、妻に当たり散らす。
するとその妻は子供にわめきたてる。子供は犬を蹴飛ばす。犬は猫にかみつく。
このように図式化すると、あまりにも単純化していると思われるかもしれないが、実はこの図式は真理を驚くほど正確にあわらしている。
それは「とかく人間は、ネガティブな感情を本来向けなければならない対象からそらせ、より容易なターゲットに向けてしまいやすい」ということなのだ。
(『毒になる親:一生苦しむ子供』スーザン・フォワード/著 講談社+α文庫 p44より抜粋)
『愛着スタイル』のチェックリストにて、「愛着不安(見捨てられ不安)」「回避的傾向」「心の傷の深さ(PTSD的な要素)」の度合いについて見ていくことが重要→別の機会に
『HSC子育てラボ』が提供する著作物(記事コンテンツ、画像等)を許可なく複製、転載、転用、翻案すること(記事の内容を動画で配信する行為も含みます)を禁止します。著作権侵害行為が発見された場合には厳正に対処します。
また、当サイトのご利用により生じたと考えられる損害に対し当方は責任を負うものではありませんので、あらかじめご了承ください。