学校に行きたくないという強い反応が起こっている子たちの中で、それを尊重してあげることが大切な“気質”の子がいます。
それがHSC(人一倍敏感な子)。
このことが、当事者だけでなく、学校関係の方だけでなく、できれば世の中に広まっていってほしい。
その方法を模索する中で、メンタルヘルス(特に自己肯定感)がライフワークという内科医のDr.ゆうすけさんに、夫婦でお話を伺いたいと考えました。
以前対談させていただいたことで、学校や社会のシステムが一定数の子や人にとって、不適応を示すのは自然であること、学校や社会のシステムを信じ込むのではなく、子ども(その人の感覚や感情)を信じてあげることが大事である。
だから逃げていい、選んでいいというお考えをお持ちであることがわかっていたからです。
【Dr.ゆうすけさん】
メンタルヘルスがライフワークの内科医。
身近な人の「死にたい」とか「生きにくい」と触れあって感じたものをことばにするのが好き。
スプラ2はスパヒューを愛用。総プレイ時間1100時間でウデマエS+4。
好きな言葉は「勇者とは、勇敢な者ことではなく、人に勇気を与える者のことだ」
(以上Twitterプロフィールより)
Twitterのフォロワー数は1.7万を超える「Dr.ゆうすけ」さん。
Twitterの他にnoteがあり、マガジン「月刊・自己肯定感」を発行。
その「生きづらさ」に寄り添う発信は、人々の共感を呼び、励まされ、楽になれる、救われるという方々は大変多い。
思考の整理棚
Dr.ゆうすけさん(以下ゆうさん)、よろしくお願いします。
私は、子どもさんと親御さんにおいて、“たとえ学校に行かない選択をしても、将来は大丈夫と言える今をつくっていきましょう”、というような本を作りたいと思っています。
お母さんたちは、子どもがそんなに嫌がるなら学校に行かなくても・・・と考える一方で、お母さんも子どもさんも、学校から離れた後のイメージも、このまま通い続けるイメージもできず、思考停止した状態となり、不安や葛藤を抱えます。
情報や助言も様々で、判断・選択に迷いますし、安心材料が見当たらない課題もあります。
親にとって課題と感じらている点は
「子どもの勉強」
「子どもの社会性」
「学校に戻りたいと思っても戻れなくなるのでは?」
「子どもの将来」
「子どもの心のケア」
「お母さんの仕事」
などです。
このような課題があるわけですが、『学校に行かないこと』『学校以外の選択肢の安心材料』について、ゆうさんはどのようなお考えをお持ちですか?
学校に行かせるということがあまりに多数派すぎて、それ以外の選択肢が選べないのだと思うのです。
では僕らが学校に何を求めているのか。
その機能を因数分解してみたらいいのかなと思います。
まず、学校がそもそも何を育む場所か、というところから見ていきますね。
学校に期待している機能でいうと、たとえば、
「子どもが自然でいられるという意味での安心の居場所」、「生きる力を身につける場所」、生きる力というのがさらに因数分解されて、機能的な能力、技術、算数・国語・読み書き、「情緒的なコミュニケーションや他者理解」といったところでしょうか。
あとは「託児機能」ですね。
親自身が適度に子どもから離れて一人になれるというように、親のために必要なことでもありますね。
生きる力を身につけるというのは、特に将来の仕事や生活力につながる部分で、情緒的なコミュニケーションや他者理解は社会性といったところになりますね。
それぞれの機能が、全ての人たちにとって必要とも限らないですし、必要な割合というのがそれぞれで違うと思うんです。
ある程度、いろんな人にとって、これらの機能が学校以外でも確保できるという目処がつくと少し変わると思いますね。
そういう思考の整理棚として使ってもらったらいいと思います。
この棚で考えると意外とこの四つが今の学校で満たされてないということがあると思うんですね。
4つとはさきほどの、
「子どもが自然でいられるという意味での安心の居場所」
「生きる力を身につける場所」機能的な能力、技術、算数・国語・読み書きなど
「情緒的なコミュニケーションや他者理解」
「託児機能」ですね。
そうですね。たとえば安全な居場所になってないと、適切なコミュニケーションにならず、そのスキルが身につきません。
勉強も身につかず、この4つのうち3つがいまいちということになったら、無理やり行かせるメリットというものがないですよね。
ですから、これらが他の所で賄えてしまえば、学校以外の選択肢をとることにリアリティが増してくると思うんですね。
学校という場を使っている人が多いという現状は、 まずそれが最も「ふつう」である、つまり、多数派であることの安心感があると思うんです。それに、低コストで効率的だと思われている。
それを他で調達しようと思ったら、金銭的・時間的なコストがすごくかかってくるし、当然多数派ではなくなることの不安がつきまとう。
そういうところの覚悟が必要ですが、逆にこのあたりの腹さえくくれれば、可能だと思うのです。
子どもの中には、既製品に合わない子も絶対にいるわけで、エジソンの話などが有名ですけど、この子に一番合うであろう教育支援というものを考える機会を得ることが、長期的には一番のメリットになるとおもいます。
お母さんの依存先とコミュニティ
エジソンのお母さんは自分が教えるということを選ばれたんですよね。
すごいですよね。それはやっぱりそこにコストをかけるという覚悟があったんですよね。
エジソンのお母さんはそれを一人でやったというのがすごいと思っているのですが、現状、今それをやろうとすると、依存先を増やさないといけないんじゃないかなと思うんですね。
なのでそういう依存先を増やす覚悟というのも必要ですね。自分だけで思い詰めずに。
託児機能としての依存先ということだけではなくて、お母さんの精神的な依存先も、ということですね。
普通の学校教育に依存するよりはるかにコストがかかる選択をしているので、破綻するリスクが大きいからですね。
自分一人が勉強を教えようということではなく、そこにコミュニティの力が必要になってくるのではないかなと思うんですよね。
お母さんの依存先としてあげられるのがコミュニティということですね。
コミュニティには、地域の公的なもの、民間、ママ友グループ、SNS、アプリなど、いろいろあると思います。
もちろん、どこかに集まるなどして、リアルに交流できると良いのですが、時間、距離、体力、精神など、実際には様々なコストがかかったり、そもそも身近にそのような場がない地方もあると思います。
そのような場合、コミュニティは、オンライン上のつながりだけでも賄えると思われますか?
オンラインでも賄えることはあるんじゃないですかね。
オンライン上のつながりによって、うまくリソースやノウハウの共有ということをやられようとしているわけですよね。
それはとてもいいなと思っています。
私の経験上、大人のコミュニティだけど、そこに子どもも交われるというのがすごくいいなと思っているのですが。
すごくいいですよね。
子どもだけでなく、親も一緒に参加するコミュニティという理想については、ご経験上いかがですか?
これは超個人的な感想なんですけど、子どもが入るコミュニティをつくるとなれば、子どもの中にすでにある文脈、たとえば「スプラトゥーン」のようなゲームとかが核になってもいいのではないかと思っています。
大人と子どもが交流をもつのに、まず共通言語をもつことがすごく大事。そのきっかけづくりとして、子どもが魅力的と感じる文脈をつかってしまう。
なるほど。たしかにZoom(オンラインミーティングアプリ)で対話しようと思っても、子どもは対話に至らず、いつの間にか遊びを作りだして、遊びを言語代わりにしていましたね。それはそれで楽しんでいましたけど。
思い切って、最もコミュニケーションを取りやすいゲームを目的に、居場所ができるのはアリですね。
オンラインゲームは、それぞれが自分の家にいてつながるわけですよね。
そうですね。僕と、息子と息子の友達とで対戦したりするんですが、僕がゲーマーなので、ものすごく本気になります。負けたら悔しいし。同じものに夢中になっているから、すごく親近感を感じてもらって、仲良くなれている感覚があります。ボードゲームとかでもいいと思うんですけど、一緒に本気になって楽しむのがいいんじゃないかなと。
そういうものを増やしていくといいですね。
ゲームだけじゃなくて、化学が好きなら化学でもいいし、動物、生き物、アニメでも漫画でもいいし。
はい。YouTubeでもいいし。子どもが好きなものですよね。
心の傷が回復するために
愛着障害というのがあります。
歴史が浅くてまだ十分に浸透していないようなのですが、特に敏感な気質の子を人手に預けることが愛着の傷となって、分離不安をなおさら強化して、二次的な不登校につながっているケースがあるんですね。
その心の傷を癒して回復するためにお母さんが一緒にいてもらうことがすごく大事な過程になってくるという子がいます。
今想定しているのは、親御さんが子どもさんに寄り添うという気持ちがあるケースの話なんですよね。
愛着障害の問題ってそうじゃないことも多いじゃないですか、ネグレクトとか・・・。
たぶん今回の読者層的には、子どものために何とかしたいんだけどどうしたらいいかわからないと言う方のためのものかなと。
そうですね。
愛着障害と言っても様々な要因が関与しているのですが、敏感な気質の子にとって愛着関係において傷になりやすい一番の核の部分は親から引き離される体験ですね。
見捨てられる不安、そこが一番のベースになっていると思うものですから。
愛着関係における傷を癒すためには、子どもさんが安心感を取り戻すための時間と親御さんの覚悟が必要です。ですからお子さんと一緒に回復の中で寄り添うという気持ちを持った方が読者層になると思います。
ただ一緒に過ごしてあげるということや、「関心を向けているよ」というメッセージを与えること、親の都合で子どもの自然なものの感じ方をねじ曲げさせない、といった話は、子どもの自己肯定感にとって重要なことだと思うので、「学校に行かなくていいよ」と言う態度はものすごく大事かなと思います。
一方で、親と子だけで関係が閉じていくと、お互いへの依存性がすごく高まってしまう。
一対一の関係だと詰まってしまいがちになるので、親にも子にも、複数の依存先が必要なんじゃないかと思いますね。
HSCの概念が市民権を得ていくと
複数の依存先…そうですね。私としてもその依存先のひとつとなるようなコミュニティが整えられたらと思っているんです。
次にHSCについてなのですが。本が出版されたり雑誌に掲載されたり、一般の方が目にする機会も少しづつ増えてると思うんですね。
そこでHSC に関する印象やこれからの可能性についてお考えを聞かせていただけますか?
僕は医師なので、「病名」とか、「概念」とかによっていまの苦しみに輪郭が与えられるということに意味があると思っています。
自分の生きづらさとか、いま不適応を起こしている原因が何かわからないことは、ものすごく辛いんですね。
自分がうまくいかないのにはこういう理由があったのか、とか、今後起こりうる不利益が予測できることっていうのは、基本的にはすごく救われることだなと思っていて。
そういう意味で HSCとか HSP というのが概念として広まっていくのはすごくいいことだと思っているんですね。
一方で「名前をつけること」そのものが持つ暴力性とか、枠組みがあることでそこに逃避的にはまり込んでしまったりとか、他者がそのレッテルを貼ったりして「あなたは◯◯だから」といってマウンティングの材料に使うということもあり得るんです。
これは全ての疾患においてあると思うんですね。
そういう懸念はあるものの、HSCという概念が広まっていって市民権を得ていくことによって、これまで知られていなかった生きづらさが周囲の人にも理解されるということはすごくポジティブにとらえています。
生きづらさを感じていらっしゃるご本人が生きづらさの理由に名前がつくことで救われる。
さらに周りの、生きづらさはあまり感じていない方、敏感さを持たなかったり自覚がない方にも知ってもらう。
お互い知っていたら自分はこうなんだと言いやすくなる。ここに安全・安心があるんですよね。
なので一方ではなくて両方が知っているといいなと・・・。
自分がその当事者で、小さい頃からHSCで今も超敏感なHSPで、組織に合わないということでずっと苦しんできたんですね。
小さい頃に HSCという概念があって、大人の人たちからその内容について教わっていたら、相当生きやすくなっていたんじゃないかなと思うんですよね。
私は、医者にならなければ存在価値が認められないという環境の中で育って、医者以外の選択肢がなかったので、その中で医学部に入ることになったんですね。
超敏感な自分にとっては、動物実験や人体解剖実習、手術中の臭いや音、そのほか、大勢の前で発表させられることとか本当に地獄でしたね。
こんなに辛いのは自分だけなのか、という疑問をいつも持っていました。
小さい頃から自分の気質を知って、自分に合う学ぶ環境や職業というのを知って選べたら、本当に楽になっていただろうなと。
だからこそ子どもさんに、HSCについての知識や情報を届けたいと強く思うんです。そして、それが小さい頃の自分を救うことにもなるじゃないかと思うんですね。
本当にそうだと思いますね。
HSCとかHSPがいいのは、概念の中にポジティブな側面があるというところだと思います。ガンダムでいう「ニュータイプ」ですよね。普通の人以上に他人が出すシグナルに敏感に反応できる。人の「痛み」が分かりやすい、そういうやさしさにも通ずる。
その繊細性を活かしたコミュニケーションは、それを持たない人には真似しにくいところだと思います。
それが「おもてなし」や提供するサービスに活かせるような長所となる。敏感な人ならではの社会との接し方がある。そういう意味でも本当にいろんな人が知っていてくれればいいと思いますね。
これは本当にそう思いますね。
先ほど市民権とおっしゃいましたけど、その言葉、イメージしやすくてすごくいいなと思いまして。
世の中において権利を得るということですね。
そうですね当然あるべき権利だし、成熟した大人と、そうじゃない大人がいるとしたら、何がその違いを至らしめているかと言うと、
「人の痛みに対しての理解があるかないか」というところではないかと思うんです。
いろんな人の痛みを知っていれば、それに配慮した成熟した対応がとれる。
「やさしい」とは、そういうことだと思っています。
「やさしさ」っていうのは、「だれかの痛みに共感する能力や技術」と「その能力を誰にどう配分するか」という掛け算だと思っていて。
様々な生きづらさのリアルを知識として知っていて、それに配慮したコミュニケーション技術が高まれば、その人の「共感する能力」はどんどん上がっていく。そうなれば、より少ない労力で、より多くの人に「やさしさ」を配分することができるんじゃいかなと。
人の痛みを知ることが、人を人として成熟させる、というふうにすごく思っています。
HSC・HSP の方は、生まれ持って共感性が高いという特性があるんですよね。
成熟に値する要素というものが生まれつき備わっているということですよね。
そこがすごく不思議だなと。
そうですよね。想像力があるというところじゃないですかね。
人の痛みを想像できる、共感できるというのは、すごく繊細なコミュニケーションがあって、それに癒される人が多いですからね。
想像力、共感力、繊細なコミュニケーション。
ゆうさんの視点を通して、HSC・HSPのポジティブな能力の魅力を再認識できました。
そして「HSCという概念が市民権を得ていく」という言葉。とても印象に残る、希望が持てる言葉でした。
ありがとうございました。
HSCの多くは、公平性・平等性・対等性についても敏感なようで、フェアであることをすごく大事にする気質が備わっていると感じています。
ですから、そうじゃないことに対してすごく心を痛めたり。
リンカーンなど、偉人伝に出てくるような、世の中を良くしようとした方々というのが それに一致していたり。
すでに生まれ持っている、成熟するための要素をどう生かしていくか。
HSCの子たちが、学校でも、学校以外の選択でも、笑顔や自己肯定感が失われることなく過ごすことができ、能力を活かせる社会にしていきたい。
あらためてそう思いました。
Dr.ゆうすけさん、とても励みになるお話や、視点をいただきました。ありがとうございました。
(取材・編集:斎藤暁子kokokaku)