
先日、家族で話をしていたときに、息子にふと尋ねました。
「もし小・中学校にそのまま通っていたら、どうなっていたと思う?」
彼は少し考えて、こう言いました。
「4年生くらいまでは、塞ぎこんでたと思う。」
そして続けて、
「友だちがほしいって思ったあたりから、吹っ切って“陽の自分”を作っていったと思う。」
さらにこうも言いました。
「限界を超えて順応した場合、陽の自分を作り上げて、主要グループに入って、不利にならないように自分を守っていたと思う。」
今、通信制高校に通っている彼は、こう続けました。
「今は、自分を持ったままグループにいる。でも、小・中で作った自分のままだったら、自分がない状態でそこにすがりついて、そういう人格になりすましていると思う。」
その言葉を聞いたとき、現実が透き通って見えるような、リアルな感覚の言語化に驚きました。

順応は、本物の自分ではない
集団に馴染む。
明るく振る舞う。
グループの中でポジションを取る。
それは一見、健全な成長のように見えます。
けれど、もしそこに「自分」が育っていなければどうなるでしょうか。
合わない。
ここは嫌だ。
怖い。
苦しい。
そうした感情を感じないことで生き延びる。
それは高度なサバイバル・スキルです。
しかしそれは、自己の成熟とは別のものです。

「できた!」の構造
子どもの好奇心を引き出す。
やりたい欲求を刺激する。
自力でクリアさせる。
「できた!」という達成感を与える。
その循環は、たしかに健全な発達のように見えます。
けれどもし、その土台に愛情飢餓や承認欲求といった〝不足した愛着〟があるとしたらどうでしょう。
「認められたい」
「居場所を失いたくない」
その飢餓や承認欲求をエネルギーにして動かされるとき、
それは外側からの誘導になります。
本人が自発的に動いているように見えても、
内側では「承認を得るための適応」「見捨てられないための適応」が起きていることがある。
それは、目に見えにくい操作の構造に近づきます。

自発性は待つもの
Spontaneity(自発性)は、
外から煽って作るものではありません。
守られ、
安心が満ち、
自己が感じられているとき、
自然に湧いてくるものです。
「やらされる」でもなく、
「認められるため」でもなく、
「やってみたい」
と、内側から立ち上がる衝動。
それが本当の意味での発達です。

自分を持ったまま、世界にいる
息子は言いました。
「自分を持ったままグループにいる。」
これは、順応とはまったく違う状態です。
自分を消さない。
自分を切り離さない。
自分を演じない。
そのままの自己で世界と関わる。
それが、自己を失わない発達・成長です。

陽の自分をつくる前に
明るくなることが悪いのではありません。
グループに入ることが悪いのでもありません。
けれど、
陽の自分を“つくる”ことで生き延びるのか。
自己を伴って自然に外へ向かうのか。
その違いは、後になって大きな意味を持ちます。
順応は、外から確認できる。
回復は、内側でしか起こらない。
だからこそ、
慣れさせるよりも、
安心を満たすことが先。
そして、
自発性を待つ。
湧いてくるまで。
『HSC子育てラボ』顧問/医師
斎藤 暁子
『HSC子育てラボ』代表/心理カウンセラー
共著書に『ママ、怒らないで。』[新装改訂版](ディスカヴァ―・トゥエンティワン)、
『学校がつらいよ。無自覚な“学校信仰”がHSCの人生におよぼす影響』がある。

