コミュニティ「HSC親子の安心基地」では、毎週水曜日10時~「HSC子育てラボ」主催のオンライン勉強会を開いています。
7月31日に行われた勉強会は、HSPである斎藤 裕医師(「HSCを守りたい」の「1章・2章・6章」原案執筆)を講師に迎え、
『家庭が「安心の基地」になるために「愛着」について深める』を題材にして行われました。
勉強会は“生もの”と言え、最初は題材をもとに進みますが、参加される方の質問やエピソードと共に、枝分かれしたテーマへと展開していきます。
今回は、「愛着」から出発し、「現在の親との関わり」→「『反応』と“対応”の違い」→「“対応”ができるようになるために知っておきたい『コントロール』『恐怖の存在』」と展開していきましたが、どれも「安心の基地」を根幹となすもの。「家庭が安心の基地になるために必要なこと」でした。
この記事では、議事録としてまとめたものを公開したいと思います。
愛着スタイルの分類
まずは愛着スタイルについての説明です。
①「不安型」または「とらわれ型」愛着スタイル(子どもでは「抵抗/両価型」)
②「回避型」または「愛着軽視型」愛着スタイル(子どもでは「回避型」)
③「おそれ・回避型」愛着スタイル(子どもでは「混乱型⦅無秩序型ともいう⦆」)
これら3つを含めて「不安定型」愛着スタイルと呼び、
安定した愛着スタイルは、「安定型」愛着スタイルと呼ぶ。
参加されている方に、チェックリストを用いて、どのスタイルに該当するかを認識してもらった。
①は“見捨てられ不安”に関し、
②は“人への回避・回避的な生き方”に関するもので、
それぞれのどのスコアが高いかを知ることで、人生にどのような影響をもたらしているかを知ることができる。
そして、もうひとつのチェックリスト
④心の傷の深さ(PTSD⦅心的外傷後ストレス障害⦆的な要素)を知るためのものを提示した。
現在の、親との関わり、および「『反応』と“対応”の違い」
チェックリストを行った後、ディスカッションの中で、今も親との関係がどこかぎこちなかったり、本音を言うとお互いに感情的になって親との関係がギクシャクし出す、言いたいことを言ったと思うが後味が悪い、という話へ。
裕Dr: 親や身内の年長者にとっての都合の良い子(人)ではなく、「親や身内の年長者とは異なる考えを持ち出す時」や「親や身内の人たちに対して異論を唱える時 or 反論する時」などは、親や身内の年長者の声色・表情・態度の変化や言動によって、無力で自分を守る術を持ち得なかった子ども時代の自分に戻ってしまいやすく、以下のような「反射的で自動的な反応」が起こりやすい、ということについての説明
〈資料共有〉【反射的で自動的な反応】について
「反射的で自動的な反応」というのは、例えば母親から自分の生き方についてあれこれ言われるたびにカッとなったり、父親の声を聞いただけでイライラするというようなことだ。相手に対して感情が自動的に反応してしまうのを許しているというのは、自分に対するコントロールを失っているということであり、言葉を換えれば、自分の感情は相手しだいでどうにでもなってしまうということになる。それはつまり、自分の感情をコントロールする力を相手に与えてしまっているということだ。
(『毒になる親:一生苦しむ子供』スーザン・フォワード/著 講談社+α文庫 p224より抜粋)
裕Dr: 大切なのは無意識の中に抑え込まれた“恐怖”の存在に気づき、「反応」ではなく、“対応”ができていけるかということ
〈資料共有〉【親が強大に見えるのはどうして? ~その強大さは、親の親や他人・世間様の価値観や信条を取り入れた“借り物の常識”に依存した自信?~】について
子どもには親が、大人であって、何でも知っていて何でもできる全能な存在に見えます。
しかし実際は、自分で吟味して出した考えをもとにして行動するのではなく、その親の親や社会が当然とする考えを基準に生きてきた部分が多々あるのです。
そうして身につけた社会性によって、一見自立した大人のように見えるものの、本当のところは精神的自立ができていないという親であっても、子どもにとってはやはり全能で強大に見えるのです。
もしも親が自分の弱みや限界を自覚し、素直で謙虚に、ありのままの姿で子どもに接していると、子どもの目に映る親は、全能でも強大でもなく、より対等に近いものとなるので非常に安全です。
反対に、自分の内面と向き合うことなく、責任を切り離して“良い人”であろうとする親ほど、巧みな口述や手法を使って子どもをコントロールするわけですが、だからこそ子どもの目には、そのような親が全能で強大に見えるのです。
親の口述や手法が自分をコントロールしてきたことや、その有害性に気づかないのは、全能で強大に見える親が“怖い”からなのです。
(拙著『ママ、怒らないで。不機嫌なしつけの連鎖がおよぼす病』風鳴舎 p96~97より抜粋)
〈資料共有〉【「反応」ではなく、“対応”へ】について
無力で自分を守る術を持ち得なかった子ども時代の自分を守ってあげるには、親から独立し成熟した大人としての客観的な見方・投げかけが重要なカギとなるのです。
これまで心の苦しみを作り出していた、『恐怖』の種が、過去のどのような状況で誰によって植えつけられたものであったか、「子ども時代に負わされたトラウマや、それに付随する「怒り」「恐れ」「悲しみ」「罪悪感」「自責感」などの感情の責任は、子どもの時の自分には無かった、自分は悪くなかった」などの理解が深められることで、対人関係で起こる相手への「反応」が『過去の再現』であることに気がつくようになります。そして、感情的に呑み込まれていた自分を卒業し、大人としての“対応”を身につけていくことで、相手の心・顔色・圧力などに対する恐怖が軽減されていきます。
はじめは自己主張することで、嫌がられたり、かわいくない、生意気だ、我儘な人、子どもみたいな人、面倒くさい人、などと思われたり、切り捨てられたりするのではないか、ということに恐れが働き、うまく対応できないこともあるかもしれませんが、そこは挑戦です。
それでももし、例えばトラウマを与えた相手を前にするだけで恐怖心が喚起され、動悸がする・固まる・震えるなど、敏感に反応してしまうといった方の場合はPTSDの影響を明確にすることが必要です。そのうえで、“対応”を身につけ、『恐怖』という反応によって後戻りしない自分に育てることが重要なのです。
(拙著『ママ、怒らないで。不機嫌なしつけの連鎖がおよぼす病』風鳴舎 p174~176より抜粋)
“対応”ができるようになるために知っておきたい『コントロール』『恐怖の存在』
裕Dr: 自己否定感や低い自己価値、トラウマの原因になり得ることの説明
〈資料共有〉【正論の押しつけ・コントロールの弊害】について
多くの親は、子どもを叱るに十分な理由を見つけてから、その正論を振りかざしているようなのだ。
「この子が約束を破ったから、そのことを叱っている」などと、正当化をしているのではないだろうか。そうやって「自分は感情的に怒っているのではない」と自分を許しているのではないだろうか。いわば、”理性の皮を被った感情”による攻撃である。
だから子どもも「自分が悪い」と信じて疑っていない場合が多い。反論できない。逃げ場をふさがれ、完全に追いつめられてしまう。
さらに昨今は、親向けの「コーチング」などの講座や書籍が多数ある。教育熱心な親が、コーチングを学ぶのである。コーチングとは本来、その人がもっている力をその人の望む方向に引き出すために行うサポート。しかし「わが子を賢く育てたい」と思う親が何の悪気もなくその技術を応用すれば、子どもをコントロールすることに使えなくもない。
暴力や暴言で威圧しなくとも、真綿でくるむように子どもをソフトコントロールできてしまうのである。子どもからしてみれば「のれんに腕押し」で、反抗するきっかけすら与えられない。反抗期が漂白される。
反抗期がないということは、多感な時期に、精神的な自立を果たせないということである。私が取材する中学校や高校の教員たちは一様に「最近は反抗期がない子どもが増えている。それはそれで心配」と口をそろえる。反抗期がないまま思春期を終えてしまうと、大学生になってから、または社会に出てから、精神の不調を訴えることも少なくないようなのだ。
子どもの意思を軽視し、親が子どもの人生を操り、子どもに生きづらさを感じさせるとするならば、それも広義の「教育虐待」といえるのではないかと、取材を通して私は思った。教育虐待が、うっすらと見えにくくなっているのだ。
(東洋経済ONLINE 「教育虐待」に気づかない教育熱心な親たちの闇…育児・教育ジャーナリスト:おおたとしまさ氏の記事より抜粋)
裕Dr: 「虐待」の本質について
〈資料共有〉【「虐待」の本質】について
虐待には暴力があったか、なかったは特に問題ではありません。
人間が感情をそのまま感じ、その感情を自由に表現することができないようにするためには、暴力は必要ないからです。
人間の主体性を奪うのには、心理的なコントロールで充分なのです。
暴力を否定する気持ちは止まないのですが、虐待の本質を捉えた場合には「暴力」自体が問題なのではなく、PTSDを引き起こすような心理的な暴力としての行為が核心になる、というのが私の見解です。
それは、主体性を押しつぶし、自由を奪う行為、主に親によるコントロール=支配そのものを意味します。
親の都合で考える常識的な枠、あるいは親の都合による価値観や概念を無理やり子どもに押しつける、あるいはそこに子どもを押し込めようとする、親の都合によるコントロールこそが虐待の本質だということを強調したいのです。
(『隠された児童虐待』鈴木健治/著 文芸社 p73より抜粋)
裕Drより:
①子どもの『主体性』を押しつぶす
②子どもの自尊感情や自己肯定感を損なう
③子どもの本当の欲求や自然に湧いた感情を抑圧させる
これらの原因となる心理的なコントロールがあれば「虐待」と捉え、
■コントロールされてきたかどうか(コントロールの事実があったかどうか)に気づく
■どんなことがコントロールか(コントロールの中身についての認識)・・・【3つの、認識されにくい支配(コントロール)】が提示された。
■無意識の中に抑え込まれている『恐怖』の存在は?
などについて考えてみる。
“対応”するには『コントロール』と『恐怖』の存在に気づくことが重要・・・拙著『ママ、怒らないで』(風鳴舎)の第7章“恐怖と向き合う”を読んでいただくと良い。子どもにとって抵抗不能な「躾」・「教育」という名の『コントロール』(虐待)の本質や、無意識の中に抑え込まれている『恐怖』の存在について書かれているので理解しやすい。
そして、“対応”するために自分を成熟させる材料として、
が提示され、考えることに。
【この質問の意図】この質問と真摯に向き合うことで、
①子どもの頃から強大な存在として見えていた親がだんだん小さくなっていく、実寸大になっていく過程を実感されると思われる。
例えば、親が自分の親や他人・世間様の価値観や信条を取り入れ、単に借り物の常識に依存した躾や教育を中心とした子育てを行ってきたのだということに気づいたりすることによって、親の未熟な部分が見えてくることで、自分より小さな存在に感じられるということも往々にしてあり得る。つまり、それによって恐怖も小さくなることで、“対応”へのハードルも下がるということ。
②自分の内面の成熟(自己の成長)につながっていく。
主体性(自分の意志・判断によってみずから責任をもって行動する力)が養われ、自発的な意志による選択・決断や、自分の深いところから湧いてきた独自の考えに基づく信念に確信が持てるようになり得る。それによって、親からの精神的な分離・精神的な自立が行われ、親からのネガティブな影響を受けない生き方(スキル)が身についていくということ。
③「安心の基地」の構築につながっていく。
子どもを基準とした、親としての責任を考える土台が構築されていくと、子どもの気持ちに寄り添い、子どもの目線まで降りて考えられるようになり、おのずと、自身がつくった家庭環境の「安心の基地」の構築につながっていくということ。
最後に、裕Drから、「家庭内に求められるれもの、それは安心感と信頼感が備わった『安心の基地』」ということで、【安心の基地に必要なもの】が6項目提示された。
参考文献…『愛着障害』岡田尊司/著 光文社新書、『愛着障害の克服』岡田尊司/著 光文社新書、『発達障害と呼ばないで』岡田尊司/著 幻冬舎新書、『回避性愛着障害』岡田尊司/著 光文社新書
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