「HSC子育てラボ」7月24日の勉強会では、
精神科医 近藤章久/著『その道はひらけていた』という書籍より抜粋した、以下の問答を題材にしました。
質問:私は人生は、あきらめだと思います。どうせ、生まれたときから、自分が好きで生きてきたのではないのですから、できるだけ忙しくして、くたびれて、眠って、考えないで、早く死んでいくより他ないと思います。
答え:だいたい、いまの方は代表的にいわれたのですけども、自分が生まれようと思って生まれたわけでなく、こういう人の世に出て来た。その人生をよくよく見れば、すべてこれよろずのこと、苦しみや、つまらなさをごまかしているにすぎない。まぎらわしにしかすぎない。それをどうにもできないとすれば、まぎらわして生きていくより仕様がないのではないか、というふうに考える考え方であります。
そしておそらく、女性の一生というのは——女の一生を小説家がいろいろ書いているわけですけれども――、なにか根本的に一つのあきらめを含んだ場合が多いでしょう。それも人生というものに対する応えの一つには違いありません。
質問:だから女としたらあきらめて、そうして生きていくより仕方がないと思うのです。自由とかいうのはわがままですよ。
答え:あきらめているとあなたはおっしゃるけれども、私はもう少し考えてみることがあると思うんです。あきらめているといわれるけれど、あなたの今の調子は何か投げやりな、いきどおりが、こもっていることをお考えになってください。あきらめということばで、わが身にいいきかせておさえつけている何かが、ありはしないでしょうか。
質問:姑や小姑の中では、どんなにもがいても、どうにもならないのですね。
答え:実際、あなたのような立場の人は、そう考えられていることが多いと思います。しかし、そういう立場からみれば、けっきょく環境というものは、どうにも変更できない。そういうふうなことになって来ると、それに対してやっぱり、それをそのままあきらめていくより仕様がない、という立場もあるわけですが、しかし……。
質問:だから、私がいった通り、あきらめるより仕方ないでしょう。
答え:あなたのような考え方は、おそらく、徳川時代でも明治時代でも同じではなかったか、と思うんです。つまり表現の形式は多少違いますけれども、同じではなかったかと思います。しかしいま、あなたのような若い方から、それを聞くということは、私にとっては驚きです。やっぱり、それは現代でも少しも事情は変わっていないということです。ここは、その意味では古い伝統が残っているわけでしょう。
そこでたしかに一種のあきらめを持つということは仕方のないことかも知れません。一応そういうこととしましょう。しかし、何かそこに、みたされないものがあるのではないでしょうか。このみたされないものは、今はあきらめのことばでおさえ、それを押しつぶしているわけです。けれども年をとって若さを失って来たとき押しつぶした不満の結果が出て来ます。今は何といっても、自分の若さの力に助けられていられるところがあると思んです。いまは若くて、毎日毎日忙しく働いて、クタクタになって寝てしまうエネルギーがありますからいいです。しかし、年とって考えると、また違うと思うんです。そのように身体をこき使って、ただ暇をつぶせばいいというふうに生活していることは、年を取るとともに体も弱くなり、病気になる原因になります。
そしてそれと同時に、そういう不満を毎日、心に抱きながら送るというわけですが、そういうことを長い間やっていますと、最後に、からだの方の病気に出て来たり、精神上の問題になってくるわけです。これは、若いうちはなんでもないんです。けれども、これをつづけてやっていると必ず問題になるのです。
それと、もう一つは不満ということで、その人間が、みちたりていない場合に、あきらめるとおっしゃいますけれど、本当にあきらめきれるか、どうでしょう。やむをえないから、しょっちゅうあきらめなければ、とやっているわけですが、本当はあきらめたくないんです。それは、いつも心の底にカスのように残るだろうと思います。だってしょうがないじゃないの、ということになると、そこに敵意すら感じることができます。
あるイライラした敵意、そういうものが心の中に立ちこめるわけです。それでどうかすると、もっていきどころのない敵意を嫁や子どもに当たりちらすというような、みにくい関係が出て来ます。敵意といいましても、いったいどういうものか、自分でも気がつかないうちに敵意が出て来る。また一方自分自身でも無意識のうちに、自分を卑下して、心の中で自分を軽蔑するようになって来ます。自分はこういうつまらない人生を送っているんだ、くだらない人間だということが、やっぱりもみ消してももみ消しても起きて来るのです。(中略)
そこで一生をすごすのに、むずかしいことをいわないで、毎日毎日、映画をみたり、芝居へいったりして暮らしてしまう。それはある意味で、正直な暮らし方ともいえますが、いかにも捨てばちな、なんか自棄的なものを感じます。「しようがないじゃない」とこういうわけです。これは、やっぱり悲しいことです。悲しい現実だけれど、そこには仕方のないことがあると思うんです。まず第一にあなたをこれほどまで、追いつめた環境が、ある程度変われば、また違った生き方もあるだろうと思います。
しかし環境というものは、どうしても変えられない場合があります。それもやむをえないことでしょう。しかしまた同時に、われわれが、考え方、心の態度というものをちょっと変えることによって、ほんの何万分の一か、何千分の一かわからないけれども、何か、そこに生きがいを見いだす道はないだろうか、ただ絶望するばかりでなく、そういうふうに考えることも、必要ではないだろうか、と思うのであります。そういうことをやった後で、どうしても生きがいを見出すことができないという場合、やっぱり自分自身に対して、自分が生きている事実の上に立ってですね。自分の一生というものを、それだけで暮らしてしまっていいか、どうか、もう一編考える必要があると思います。
本当にこれは、人間個人の、一番深いところで、その人自体が本当に深く考え、自分自身に対して決断しなくてはいけないことなのであります。こういうことは他の人が、とやかくいうところではないと思います。やっぱり自分の人生は、自分の人生どう生きるかということは、自分の責任であります。
だから病的なあきらめで生きたくないとあなたがおっしゃれば、そのためにはどうすればいいか、やっぱり、それを自分で求めなければいけません。またそれを求めるのが、人間として自然だろうと思います。それを求めまいとして、どんなにもみ消しても、もみ消して、もそれは、なくならないものであります。ですから、それをはっきり認めて、どうしたらいいか、ということを本当に考えていく必要があると思います。(中略)
そして最後につけ加えますが、お母さんが絶望的な気持ちを持っていると、不思議なことに、子どももまた絶望的な気持ちを持ちやすいのです。何かお母さんのなげやりな、そして絶望的な、そういう気持ちは、子どもは敏感に感じるものです。その時に問題が起きます。この問題もお母さんの大きな問題と私はいいたいのです。母になることはやさしいと私はいつもいうのです。とにかく結婚すれば、生理的には簡単に母になれるんです。けれども本当の意味で、子どもにとっての母、子を育てる本当の意味の母になることは、むずかしいんです。
そして子どもはさっき申しあげた通り、いわば、本当に厳格な鏡のようなものです。母親がどんなにかくして、わからないと思っていても、母親を最も信頼し、母親をいつも眺めている、二つの純粋な目があるのであります。その目が母親の心を映してしまうのです。そのとき、母親は、たじろがないで自分の生きがいをかけて、自分の生命をかけて、わが子には「私はこうです」「こう生きてるのです」という本当のものを、示さなくてはならないだろうと思います。それがやっぱり子どもを持った者の一つの意味だろうと思います。
(『その道はひらけていた』近藤章久/著 p166-172より抜粋)